通産成績18戦8勝。
母と兄姉はいずれも短距離戦を中心に活躍し、デビュー前から短距離路線での期待が大きかった。
2001年12月に競走馬としてデビュー。
1番人気(単勝1.4倍)に応えて優勝した。その後脚部不安(骨瘤)を発症する兆候を見せたため休養がとられ、
翌2002年8月に復帰(結果は2着)。
その後条件戦を3連勝した。その後は重賞では力が及ばなかったものの2003年1月にオープン特別のニューイヤーステークスを優勝し素質を開花させつつあった。
同年3月の中山記念で9着に敗れた後休養に入り、9月のセントウルステークスで復帰すると出走馬中最速の上がりをみせ3着に。 この後調教師の坂口はオープン特別のポートアイランドステークスに出走させる計画を立てていたが、 セントウルステークスで騎乗した池添謙一の進言を受けてGIスプリンターズステークスへの出走を決定した。 レースでは最後方からレースを進め、直線でビリーヴをハナ差(約15cm)交わして優勝。重賞初制覇にしてGI初制覇を達成し陣営の期待に応えた。 レース後、陣営は前年10着に敗れたマイルチャンピオンシップへの出走を決定。 馬の実力と1600mという距離への不安を抱えての出走であったが、このレースでも後方から直線で一気に他馬を差し切る末脚を見せつけ距離不安を吹き飛ばし快勝して見せた。 スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップの連勝が評価され、デュランダルは2003年のJRA賞最優秀短距離馬に選出された。
2004年、デュランダルは裂蹄を発症し、ステップレースを経ることなくのGI高松宮記念に出走。 初の左回りコースや休養明けという不安材料がありながらも1番人気に支持されたが、 レースでは後方から直線追い込むも、サニングデールにクビ差及ばず2着に敗れた。 レース後陣営は安田記念出走を目指したがレース1か月前に裂蹄を発症し、出走断念を余儀なくされた。
秋に入り、高松宮記念以来約6か月のブランクを経てスプリンターズステークスに出走。 レース当日の馬場状態は追い込み馬に不利とされる重馬場となり、 デュランダルは最後方から出走馬中最速の上がりを見せたものの逃げたカルストンライトオを交わすことができず、 2着に敗れた。続いて一叩きし万全の体制で迎えたマイルチャンピオンシップでは、 後方待機から出走馬中唯一33秒台の上がりを繰り出して優勝し、同レース連覇を達成し評価を不動のものとした。 この後デュランダルは香港の沙田競馬場で行われた香港マイルに招待され出走したが5着に敗れた。 なおこのレースでは、レース当日に主催者が大量の水を馬場に散布する行動をとったため、 デュランダルに極めて不利な馬場状態が形成されたとされている。 この年、デュランダルは短距離GIでの安定した成績が評価され、2年連続でJRA賞最優秀短距離馬に選出された。
2005年、デュランダルは馬にとって致命的な疾病の一つである蹄葉炎を発症。 競走生活の続行は絶望的とされたが懸命の治療の結果、10月のスプリンターズステークスで奇跡的に復帰を果たした。 レースでは後方待機から生涯最速の上がり32秒7の末脚を繰り出したが、サイレントウィットネスに及ばずの2着に敗れたがG1馬としての地力は見せ付けた。 その後史上初のJRA主催の同一GI3連覇をかけてマイルチャンピオンシップに出走。 圧倒的一番人気に推され、レースでは出走馬中最速の上がりを記録したもののハットトリックの8着に敗れた。 このレースを最後に競走馬を引退を表明し、社台スタリオンステーションにて種牡馬となった。(初年度の種付け料は250万円)
ちなみに、勝ったG1レースでの2着馬は全て牝馬であり実力を疑問視する声も中にはある。
デュランダルは、少し華奢に見えるぐらい細く映り無駄のない馬体だったが、
後躯が大きく強靭なトモから名前に違わぬ素晴らしい切れ味を発揮した。
ただ、繋ぎが短く脚に負担が掛かりやすいためコンスタントにはレースに使えなかった。
産駒は、脚元に問題なければ父の特長を良く受け継いでおり短距離でコンスタントな活躍が期待できる。
初年度から2歳重賞馬ジュエルオブナイルを送り出したように仕上がりは早さもあり平均点の高い種牡馬になりそうだ。
距離には限界がありそうだが短距離であれば大物の登場も十分期待できるだろう。
| 年 | 出走 | 勝利 | AEI | 収得賞金 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 頭数 | 回数 | 頭数 | 回数 | 順位 | |||